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回顧

Laraaji - The Dance #1




昔話しをば。

それにしても創造主を踏まえたポジティブシンキングの時代が約20年。
テーラワーダの時代が約18年。
この間、移行期間といいますか、重なっていた時期もあります。
7年くらい重なっていたと思います。

ポジティブシンキングしながらテーラワーダの世界へ。
テーラワーダを散策しながらポジティブシンキング。
こんなダブルな時代が7年くらいあったと思います。


が、ゴエンカ氏の瞑想合宿が、
完全なターニングポイントになりましたね。


しかし、テーラワーダに本格的に入っていくに従って、
疑問を抱いたのが「真我の否定」。
いわゆる「無我」です。

テーラワーダでは真我を認めません。
最初から。

これに戸惑ってしまったものです。
何故か?

真我とは、宇宙意識のことでもあるからです。
宇宙性としての意識。
この宇宙意識は、常に感じていた意識。

しかし、これを否定するというのは、
抵抗感というよりも違和感を感じたものです。
おかしいのでは?
しかし、教理上、真我は否定されている。

なんだこれ?

これに戸惑ったというわけです。


しかしながら「真我を否定するというのであるなら、そうなんだろう」と思い、
自分の内部にあった宇宙意識の感覚を捨てるかのようなことを。

が、やっぱりおかしい。
何か変。
おかしい。
腑に落ちない。

そもそも、宇宙意識抜きにすると、知性が勝り、変な感じがする。
なんだこれ?

そんな思いを抱きながらも、真我を意識しない有り様を探索。
「気づき」「サティ」を模索。

が、テーラワーダへ本格的に没入すればするほど感じる違和感。
「なんだこれ?」



そんな折り、アドヴァイタ関連の書が目に留まります。
今までスルーしていたものの、手にしてみると、どこか納得。

そうこうしているうちに、次第にテーラワーダに対しての疑問。
「真我を否定するのは間違いではなかろうか?」。


で、北海道函館へ。
トラピスチヌ修道院へ。

トラピスチヌ修道院


この動画は、実は私が撮影したもの^^;
2014年10月ですね。

資料室にあったラテン語の聖書には感動しましたね。
その他、庭園にあった像や建物もよかった。


で、北海道から帰ってきて、翌年2015年1月2日から
アドヴァイタ式のプレゼンスを実習。

3ケ月後。
濃厚なプレゼンスを感じる。

これは21才のときに体験した「それ」に似ている。
「それ」そのものではないが、連なるものであることを実感。

わかった!
気づきの正体。
サティの正体。

気づき・サティとは「それ」であり、飛躍し次元の異なる知性が絡んだ認識だった。
言葉を変えると、身体意識を変えると、空、慈悲、無我とも言える。

同じ源泉。
同じエネルギー。
同じところから出ている。
ただ、はたらき、機能が異なるだけ。

古来、この源泉を、真我、純粋意識、宇宙意識、命の源、大霊、
大いなる存在、無条件の愛、無我など様々な言い方をしていた。


ここからブレイクスルーが始まります。
21才の覚醒体験の謎。
その謎の一部が解けた。

と同時に、テーラワーダは間違っているところがあることに気づく。
真我を否定すれば進みにくい。
真我こそ、サティの源泉。
宇宙意識こそ、気づきそのもの。
慈悲の源泉。

すでに宇宙意識はあった。
慈悲はあった。
気づきはあった。
サティはあった。
深まりすらもあった。

あるにも関わらず、何かを探していた。
否定していた。
観念にととらわれていた。
そう、観念的な教義が足を引っ張っていた。


ブレイクスルー。

宇宙意識、真我、飛躍した次元の意識を否定すると、
自覚を無くすと、甘くなる、弱くなる。

真我は、いったんは自覚してこそ、深まることによって、
道は進むようになっている。
この発見。

サティの深まりとは、気づきの深まりとは、
宇宙意識への深まりだったということ。

そして悟りとは、解脱とは、真我を超越した状態であること。
これがうっすらと感じられた。


今、リラックスすれば、空であり、気づきであり、
「それ」の意識が濃厚に広がっていることが体感される。

この意識は次元を異にしている。
空としかいいようのない意識。

ここに完全に溶け込み、溶解し、消えてしまうことが、
大悟なんだろう。