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ディープな話しの後にはフジ子・ヘミング「月の光」

フジ子・ヘミング〜月の光



いやはや、昨夜もディープな記事を投稿してしまいましたが、
だんだんといろいろとわかってきましたのでね。

いかんせん、何十年にもわたって検証してきていることです。
で、私が体験したことは、いわゆる「悟りの一瞥体験」とはまた違う。
ちょっと違うんですね。
何かが残り、その後、変容しているからです。

が、伝統的な文献には、そういったことが明確に伝承されていません。
なので、一体、何だったのかを解き明かしたいというのがあったりします。


が、4年くらい前からだんだんとわかってきたものです。
しかし、かれこれ30年以上も前のことですので、忘れてしまったこともあります。

けれども、今年になってから、那智タケシさん、別府慎剛さんの手記を知り、
「似ている」ことに気づきます。

忘れていた当時の感覚などを思い出し、自分の上に何が起きたのかが、
ようやくわかってきたという塩梅。

忘れてしまったことが、結構あることに気づきます。


「忘れた」といえば、私に自己否定感が無いことも、最近気づいたことです。
人から指摘されて、気づいたという塩梅。
こういうのは、他にもあるんじゃないかと思います。

いろいろと忘れてしまったものがあります。
けれども、いろんな人の手記を読むことで、
忘れてしまったことを思い出します。

長かったですが、今になってようやくわかってきたものです。
いや、ホント、長かった。



しかし私の昔話には、超ディープなものもありますので、
人によっては、ドン引きされるかもしれませんね^^;

「えええぇぇ、悟りって、そんなに怖い経験をするのぉぉぉ?」
「死にそうじゃんぅぅぅ」
「アタマおかしいんじゃないの?」
とか^^

ま、見方を変えれば、壮絶なところを通ってきていますので、
なんていいますか^^;

ただですね、悟りを求める人が全員、
ああいった壮絶な「暗夜」のプロセスを経るとは限りませんのでね。


思うに、自己観察や思索、善行だけでは、
激しい歩みになりやすいんじゃないかと思います。

ハートのエッセンス。
ハート。

このエッセンスがあると、もっとソフトになるんじゃないかとなあ、
というのが私の感慨。


悟りとは、畢竟、恩寵です。
恩寵。

向こうの世界から、ある日突然、手がさしのべられる。
光明が差し込む。

その恩寵には、何種類かあるような気がしています。
 ・知性からもたらされる恩寵
 ・ハートからもたらされる恩寵
 ・意志からもたらされる恩寵

自己観察だけの歩みは、「知性からもたらされる恩寵」であって、
これは壮絶な歩みにもなりやすいのではないかと。

ハートのエッセンスがあると、壮絶な暗夜にならず、
やわらかさ、やさしさ、平和さの中での暗夜になるんじゃないのかな、
という感じもします。


知性であろうと、ハートであろうと、意志であろうと、
どのルートからであっても、空性に変容してまいります。

知性が空性になると、言い換えれば、空性の知性になると、
いわゆる「気づき」という認識となります。
そうなります。

ハートが空性になると、つまり、空性のハートになると、
慈悲、四無量心となります。
そうなります。

このように、人が持っている機能は、
恩寵によって異次元的な性質に変容し、空性を帯びるようになります。


それにしても、この方面の研究や分析は、これからも続くと思います。

実践においては、「あるがまま」「純粋意識」。
表現においては、研究、分析、探索が必要。

ここは明確に分ける必要があったりもします。


と、朝から、これまたディープな話し^^;
この辺りにしておきましょうかね。
さすがにドン引きされそうですので。


遅咲きのピアニスト、フジ子・ヘミングさんの
「月の光」を聞きながら。

気持ちを切り替えませう^^