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またもや新たな発見〜2019.3.25独り言

Novation Peak | Ambient II


ここのところ、このアンビエントがヘビロテです。
何故か?

10代の頃の求道時代の心象風景と重なるところがあって、
どこか懐かしんで、惹かれてしまうのがあるからじゃないかとも感じています。

この乾いた感じ。
答えの見つからない様。



ところで、今日、何気に、
別府慎剛氏の「無師独悟」を手にしましたね。



これです。
昨年の11月頃に購入したのですが、
そのままになっていましてね。

この本は、著者の別府慎剛氏が悟った体験を、手記にしたためたものです。
「無師独悟」。
その道では、知る人ぞ知る名著だったりします。

が、古書市場でもレアな本。
入手も困難。
古書に出回っていても1万円とかの高額。

昨年、吉方位旅行から帰ってきて、アマゾンで何気に見ていたら、
1000円ちょっとで出ていたので、
ビックリして即行で購入したものです。

うーむ、これも吉方位効果か?
なんて思いましたが、
が、購入してから積読(ツンドク)状態。

放置してありました。
よくあることです。



が、今日、何気に「無師独悟」を手にしましてね。
奥付を見ると、出版が1998年とあります。
今から約20年前。

で、読み始めると、これが結構、難しい表現をしている^^;
読みにくい。
これはじっくり読む本だなあ、と。

が、第一章を読んでいくと、何がかいてあるかがわかる。
どういう状態なのかもわかる。
悟り意識というのが、どういうのかがわかる。

なんだろう?と思って、最後の「無師独悟」の章を読むことに。
が、そこに驚くべき記述が!


最終章には、著者の別府慎剛氏が
悟りに至るプロセスが述べられているではありませんか。

で、そこにはなんと、次のようなことが書いてあります。

私は悟りを求めて、鈴木大拙の禅本を片手に、読書と思索にふけり、
日々の生活において自分の意識の動きを観察し続ける「自己観察」を始めた。


驚いた。
これは私が10代のときに行っていたことと大変よく似ています!
てか、骨子は同じだ!

私の場合は、これに「善とは何か?」「徳とは何か」「神とは何か?」
「生きるとは何か?」「運命とは何か?」などが加わり、
積徳善行にも取り組むようになったことが違う点です。

しかし、「思索」と「自己観察」は同じ。


で、著者は、
その後、思索を深め、自己観察をし続けていくと、
「いつ終わるとも知れない暗闇をさまようようになった」

といいます。

これは「暗夜」ですね。
自己探索を始めると、往々にして出てくる「自らの内の闇」。

著者の暗夜体験は、次の通りです。

思索と自己観察の果てに、暗闇をさ迷うようになった。
家族、親兄弟、友人からから見放され、
孤独となって、「変人」扱いされ、
生活を支える仕事にも手が付かなくなって、
生活することも困難になった。

さらに体調もおかしくなって、すべての面において行き詰まりを
感じるようになった。

あまりの苦しさに耐えかねて、逃げ出したくなるものの、
それができず、再び舞い戻ること(求道)を繰り返した。

次第に、気力も、体力も尽き始めて、
疲労感だけが蓄積されるようになった。

この時期の終わりには、不安でたまらなくなり、
このままゆけば気が狂うのではないかという予感。

もう精も根も尽き果ててしまい、
こちらから何かを求める気力すら無くなり、
夢遊病者のような日々が延々と続いた。

何も出来ず、ただ漂うばかりの日々。

こうした混沌のまっただ中、ある日突然、空、絶対無の体験が起きた。

この決定的瞬間は、何の前触れもなく、ある日突然訪れるのである。



という手記です。
この体験手記を読んで大変驚きましてね。

何を隠そう、著者の体験は、私が体験したこととほとんど同じだからです。
寸分違わず似ているといっていい位。
よく似ている。

この時期、このプロセス。
恐ろしくも狂気に満ちた時期。

10代後半から21才までの時期。
もう忘れかけていたことを、別府慎剛氏の手記で思い起こしたものです。
そう、まったく同じ。


ただ、著者は、こうも述べています。

空を体得したからといって悟ったということにはならない。
意志と感情の問題が残っている。

ただ空を体得すると、以前のような苦悩は無くなり、
まったく経験したことの無い静寂が得られて、
この静寂に身をゆだねる心地よさは名状しがたいものである。

もう、これで充分という思いにすらなる。
また悟りを求めることはなくなる。

しかしまだ途上でもある。
未練やらの感情はまだ残っているからである。


といったことを述べています。

うーむ、これまた驚き。
まったく同じ所感だからです。

そう!
空を体得したからといって、悟ったとは言えない。

これは21才の時、私も同じことを感じた。
なので「なんだろう?」という思いがずーっと残ったわけです。


で、著者が述べている通りで
「意志と感情、未練」といったものは残っているわけです。

これらの処理。
向き合い方。
取り組み方。
これのために、その後20年近くさまようことにもなったものです。

で、テーラワーダで、その処理の仕方を知り、
アドヴァイタでいろいろなことがわかったものです。


で、著者は述べていませんが、究極的に大事なのは「ハート」なんです。
ハートのエッセンス。

「ハートの悟り」というのがあって、
ハートが洗練され、ハートのプレゼンスが起動することで、
人は、情感を持ったやさしくも霊性に開けた存在になるわけなんです。

これが大事なんです。

禅では空を体得できます。
しかし空だけでは怜悧となって、どこか冷たく、虚無になってしまう。
だから禅者の語録は乾いていて、どこか寒い。

この状態は、途上なわけですね。
まだ先がある。
禅の悟りは、一里塚に過ぎない。

大事なのが「ハート」。
ハートの悟り。



それにしても、ここのところ立て続けに
似たような体験者の手記と縁があります。

那智タケシさんの手記にも驚きましたからね。
悟り体験の感じが大変よく似ていたからです。



で、今回は、別府慎剛さんの手記は、
悟り体験までの「暗夜」が、まったくといっていいほど同じ。


で、那智タケシさんも、別府慎剛さんも、私も、全員、同じことをやっています。
「自己観察」。

なんでしょうか、この奇妙な一致。

那智タケシさんは、クリシュナムルティを片手に。
別府慎剛さんは、鈴木大拙を片手に。
私は、自己流のやり方。


いやあ、今に至って、いろいろなことがわかってきたものです。
独り言ブログですので、好き勝手に書いていますが、
今日の記事は、この方面に興味のある方には
刺激のある記事になったのではないかと思います。

いえいえ、私自身、また学びになったものです。
備忘録としての今日の独り言。
文字に著すことで、自覚が深まったりもします。





で、冒頭に紹介したアンビエント

アンビエントは、この求道時代における乾いた心と、
どこか似ているところがあるかもしれません。

そういう乾いた香りを発するアンビエントもあったりもします。

このアンビエントな香りの先に、意識の反転が起きて、
世界がひっくり返るということが起きたりもします。