ゆるぼさラウンジ

お気楽ごくらくラウンジ

矢野顕子「海と少年」の思い出〜照明前の暗夜の思い出

矢野顕子 海と少年


矢野顕子さんの「海と少年」。
たまに紹介している曲ですね。

実は、この曲には格別の思い出があったりします。
といいますか、この曲を聴いて、ものすごく励まされたといいますか、
支えになったものでした。

特に間奏の部分。
1分42秒から始まる箇所ですね。

短い間奏なのですが、ピアノのフレーズに対する
シンセのオブリガードが美しく、
その絶妙な構成に恍惚となって聴き惚れてしまったものでした。

また全体で奏でられ響く、こもり気味のシンセ・ストリングスの音。
これが、なんとも気持ちよく、その音の響きに身をゆだねて、
忘却の彼方へ連れていくかのような感じで、
まんじりと聞き入っていたものです。

聞いていると、なんとも言えない元気といいますか、
希望や明るさを感じて、ふわーっとした光を感じたものでした。


実は、この頃、自己流の自己観察をやり過ぎてしまい、
心の奥にある、どうしようもない漆黒の闇に取り憑かれてしまった感じになり、
底なしの暗闇に引き込まれるヤバい状態と、
これに対して、ベンスイートランド式の創造主を使ったポジティブシンキングとが
拮抗していた時期だったものです。



そんな中、矢野顕子さんの「海と少年」が、支えになったといいますか、
励まされたものです。

音楽に逃避せざるを得ないくらい追い詰められてゆく。
いや、追い詰めてしまった。
いやいや、開けてはならないかのような心の深奥の蓋をのぞき込んでしまい、
自分でも収拾がつかなくなってしまって、大変なことになってしまったものでした。

この頃は、とにかく精神的に大変。

すさまじい不安と葛藤が引き起きて、
生存に直結する異様な不安感に悩まされ、どうすることもできず、
嵐の中に漂う葦の船ごとく、翻弄され続けていたものでした。
精神的にヤバい状態だったものです。

それでも、「何かをつかんでやろう」という、
真理に対する執念と思いがあり、その姿はまさに「鬼」。

苦しみにひたすら耐えながら、創造主を思い、自己の内奥を観察し続け、
悲泣する思いがありながらも、飽くなき求道心だけが燃えさかり、
反対に、「もういいや」という思いが錯綜しながらも、揺れ動きながらも、
続けていたものです。


そんな不安定で揺れ動く日々を過ごしていたのですが、
その数ヶ月後、覚醒体験。
1986年12月29日午後2時頃。

自分という思い込みがひっくり返り、自分の中にとてつもない変化が起き、
この体験以降、急速なV字ターンを描くかのごとく、
健全な人間に立ち戻っていくようになったものでした。


あれだけ悩まされた不安感や葛藤、絶望感が、潮が引くかのように、
時間の経過とともに次第に薄まり、無くなっていったものでした。

メンタルの変化。
性格の変容。
才能の変化。
意識の変容。
いろんなことが自分の上に表れて、
それまでとは真逆になっていったものでした。


不思議な体験。
今でこそ「覚醒体験」と言っていますが、
当時は、そういう言葉すら知らなかったものです。

どう説明していいのかわからず、ただ、「とてつもないことが起きた」
としか言いようがありませんでした。

双極性障害とか、躁鬱病になってしまったのか?と。
あるいは解離性同一性障害
何度も何度も自己問答し、時間をかけて検証もし続けたものです。
が、やっぱり、いわゆる「まともな人間」になっていっている。
なんといっても、この「バランス感覚」。
「心の病気ではない」、「いや待てよ、もっとしっかりと検証しよう」、
といった具合に、その後、長い時間をかけて、自分を検証し続けたものです。


しかし長い間、この時の体験が一体何だったのか謎だったものでした。
何かとてつもないことが起きた。
精神の病気ではない。
何だろう。

が、4年前に、その正体がわかったものでした。
悟り体験、つまり覚醒体験だったわけですね。

その後、知り合いに自分の体験を話したところ、
「玉城康四郎氏の体験に似ている」と言われて、
それで手記を読んでみると、確かに似ていることがわかったものです。




ところが、こちらの那智タケシさんの体験のほうが
よく似ていることに気づきます。



この本、表紙で損をしています。
表紙が、軽めのスピリチュアルな印象なのですが、中身は全然違います。
表紙のイラストのせいで、おそらくほとんど知られていないはずです。

で、著者の体験。
感覚的なものは、私も同じ。
自分がひっくり返る感覚。
次元がスライドするというのは、まさにこれです。
何から何までが似ています。

「私」という思い込みが破壊され、
「私」と「世界(宇宙)」がひっくり返ったと。

この感覚が、全く同じ。


しかも、アプローチも「自己観察」。
那智さんは、7年間、自己観察。
その自己観察をしていて、内面に真っ黒な塊と遭遇したことも同じ。

覚醒体験以後、本質的に救われた感覚が出てきていること。
喜悦感、よろこびが生じてくること。
「正しい」とは何かを知っていること。
バランス感覚が絶妙になること。
自分の実在は「私ではない」ということを根本において知っていること。
生の質的な変容が起きた。
世界の恩寵それ自体を味わい、生きていくこと。

こうした感じも全く同じ。


さらに、こうしたことがありながらも、
日々の生活の中においては傷付いたり、
怒ったりするなどの感情の表れがあるとか、
葛藤が生じるなど、
矛盾するものもあって、個我のはたらきが混在しています。

だから、自分に起きたことを第三者には言いにくい。
言えば「頭のおかしいヤツだ」とか
「思い上がっているヤツ」とか思われそうなので、
言いたくない、黙ってしまう。

こうした状態もよく似ています。
驚くほどそっくり。
何なの?これ^^;

けれども、性格とか趣味は違います。
那智さんは、ギャンブル好き、借金を作り、おねーちゃんを追いかけるなど
素行にかなり問題がありそうです。
ただ、那智さんも10代の頃から精神世界の探索をしていたので、
早い段階で心の闇と向き合うことになって、これに振り回されることに
なったのではないかと思います。
で、この反動として、ギャンブルや女性に走ったのではないかと。
たぶん、そんなところじゃないかと思います。


あと、那智さんの場合は、会社で上司から叱られているときに起きたといいます。
けれども、私の場合は、秋山眞人さんの「UFOに乗って他の惑星へ行ってきた」
という手記を立ち読みしている最中に起きましたからね。

ちなみに私が立ち読みしていたのは、これです。
ネットで公開されています。
http://www.adamski.jp/gap-japan/ucon/ucon-095.html

ここにある「私の別惑星訪問体験とアダムスキーの真実性 春川正一」
というのが、くだんの手記です。

私の場合は、シチュエーションとかが、
そもそもアレに思われる状況なんですね^^;

言えば、絶対に頭のオカシイ奴に思われます。
そもそも、自分ですら、どうやって説明していいのかわからないわけです。
そんなしどろもどろの状態で、「宇宙人ガー」みたいなことを言いますと、
もう100%、危ない人間、いや頭がオカシクなった人間に思われます^^;
もう間違いない(笑)。
いや、今でも勘違いされるでしょう。

だから、ずーっと黙っていたんですね。
誰にも言うこと無く。
いや、誰にも言えない。
そもそも、説明のしようがありません。
で、30年近く、ずーっと黙っていたんです。


ところが30年近く経って、悟り系の本を読むと、
自分と似たような体験をした人が結構いることに気づきます。

で、最近になってようやく、その本当の意味が
わかったという塩梅です。

長い。
とにかく長かった。
検証に時間がかかり、長かったものです。


しかし不思議なもので、エックハルト・トールも、
覚醒前にうつ病のような状態になっています。
アジャシャンティもそう。
追い詰められてしまって鬱っぽくなってしまったと。

那智タケシさんもそう。
私もそう。

他には、富平正文さんもそう。
以前、ブログを付けていた花岡修平さんも同じ。

あとケースは異なりますが、OSHO、クリシュナ・ムルティもそう。
挙げればきりがありません。
とても多い。

覚醒体験をする前、何か申し合わせたかのように、
心身どちらかか、あるいは両方が、
極度の不安定さに陥るケースが多いことに気づかされます。


が、これはキリスト教神秘主義における、
まさに「暗夜」そのものだったりします。

テーラワーダ仏教の観察瞑想(ヴィパッサナ瞑想)における最終段階の
壊滅智、怖畏智、過患智、厭離智、脱欲智でも、
心が揺れ動き、極度の不安に陥ることが言われています。

伝統的な宗教の世界には、覚醒する前に、
極度の不安に陥ることが、体系的に伝承されています。
なので、伝統的な宗教は、勉強したほうがいいんです。


ただ、これは、うつ病とか、病的気質とは違います。
それとこれを一緒にしてはなりません。

自己の内奥を深く深く見つめていくと、狂気の領域に入り込みます。
そこには、漆黒の闇としか言いようが無い、底なしの暗さがあります。

この辺りのことを詳細に言葉にしますと、これがトリガーとなって、
読んでいる人や聞いている人の封印を解きかねません。
なので、これ以上、詳しく説明するのは控えておきます。
とにかく、ヤバい領域。

で、無防備に、その底なしの闇と向き合ったり、
対処の仕方を知らないまま対峙しようとすると、
精神がおかしくなりそうになります。
いや精神がおかしくなります。

くどいようですが、しかしこれは、うつ病や病的気質とは異なります。
自己を深く洞察するときに生じる現象だったりします。
浄化現象。
魂の暗夜。


けれども、危険です。
取り組み方を誤ると危険。

なので、この危険を回避する配慮や対処が必要なんですね。
それが体験的にわかっています。

それは、
・自分を痛めつけない姿勢が必要なこと、
・自虐的にならないこと、
・緊張して観察しないこと、
・自己への愛が必要なこと、
・自分に対する慈悲が欠かせない、
といったことが必要になるわけなんです。

こうした下地や姿勢が無いまま、深い領域の観察に入りますと、
十中八九、虚無や闇に呑み込まれてしまうでしょう。

なので、自己への愛や自己をいたわる姿勢が欠かせなくなるんです。
大事なんです。
この下地、姿勢が、ものすごく大切。
必須。

何故、慈悲が大切なのかの理由。
「自己観察と慈悲はセットですよー」と言う理由は、ここにあります。

自分をいたわりながら観察しませんと、危険なんですね。
焦らず、無理をし過ぎないほうがいいのかもしれません。

さすがに、自分と同じようなやり方は、
危なすぎておすすめできません。

何も知らないまま、めくら滅法におこなっていた中、
たまたま、そういう覚醒体験が起きたのかもしれないからです。

思い反すと、冷や汗が出ます。


しかし、精神的にいったん死んでしまって、
そこから反転するかのように「神と出会う」のは、まさに「照明」。

この「神との出会い」とは、「自分という思い」がひっくり返って、
自分が「神」だったことに気づくことだったりします。

言い換えれば、「自分という思い」が木っ端微塵となって破壊され、
それに代わる認識として、宇宙、創造主、神、大いなる存在こそが
「本当の自分」であったことを、衝撃やら爆発やら次元の転換とともに
如実に体感するわけです。

この体験は、魂の奥深くに厳然と刻印されて、
生命として異次元的領域に突入した感を与えます。

そうして死後、天界へ転生することを、これまた如実に確信するわけです。
魂のレベルで、絶対的に救われている感覚。


この辺りの表現は、那智タケシさんも、
表現こそ違うものの、似たようなことを述べています。





それにしてもすごい時代になったものです。
こうしたレアな体験も知り得ることができます。
また共有できる。

ありがたい。
似たような体験者の話しを見聞できることで、
自分の身の上に起きたことが、何だったのかがわかります。

知らなければ、自分の身の上に起きたことを理解もできず、
この生涯を終えていたと思います。

私の身の上に起きたことを、本当に理解できたのは、
実に最近のことだったりします。
あれから30年は経っています。


今になって、ようやくわかったものです。
何が起きたのか。
何だったのか。
それは口幅ったく、言いにくいことだったりします。

けれども、ようやくわかった。
自覚した。

自覚すると、次なるステージに移行するのがわかります。
いや、次なるステージに移行したので、
自分に起きたことが何だったのかがわかったとも言えます。

意識の広がりが、また一段と強くなり、
それが意味することも何なのかがわかります。


自分に起きたことを振り返り、そこに至るまでのプロセスを吟味し、
その後のことも振り返り、悟りには、何が功を奏し、どうすればよいのか。
そういうのがわかるような気がしています。

仏典をはじめ世界中の宗教やスピリチュアルを咀嚼し、換骨奪胎し、
現代に適したかたちで再構築していく。
もしかすると、これは私の務めなのかもしれない。
そんな思いもよぎります。


「自覚が大切」。
時々言うことですが、自覚は本当に大事だったりします。

おそらく覚者の役目とは、その人に起きたことを
的確に指摘することなんじゃないかと思います。


そんなことを、矢野顕子さんの「海と少年」を聞いて
思ったりもします。

あれから30年。
16才のときに、天啓のひらめきの如く、
「自分は輪廻転生から解脱するために生まれてきたんだ!」と天命に目覚め、
これ以来、求道の志が生じて、善とは何か?徳とは何か?神とは何か?
その問いかけとともに、傷だらけになりながらの試行錯誤と自己観察。
ひたすらに善行に励んだ末、21才で覚醒体験。

振り返ると、私の生涯は、この道一筋だったことがわります。

人の歩み、人生とは不思議なものです。



と、このブログでは初めてつづる、超ディープな話し。
結局、慈悲、慈愛が、ものすごく大切ということなんですね。
自己観察では、このハートが大事になってきます。

自分をいたわり、やさしく扱い、向き合う姿勢。
このやさしさを、自分にも、他人にも、
日頃から振り向けていくことなんですね。

慈悲、慈愛は、安全装置でもあります。
安全弁。

この辺りを心得ておけば、自己観察がディープな領域になっても、
大丈夫ではないかと思います。

いにしえの時代から、何故、慈悲、慈愛が大切だと言われているのか。
それは、人を魔道に陥れないための神・グレートスピリッツの計らいであり、
神・グレートスピリッツとは、愛そのものだからなんです。

ということで、超長文の記事でした^^;