ゆるぼさラウンジ

お気楽ごくらくラウンジ

エネルギーに根ざす

'Cold Lights' Ambient Guitar


「State Azure」さんの最新アンビエント

往年のブライアン・イーノを思わせる
アンビエントらしいアンビエントです。

いいですなあ。

空気を音で表す音楽。

いいですなあ。


空気。
雰囲気。

言語を超えた世界。

しかし、ここにこそ命の本質がある。
エネルギー。



昨年の暮れより、感覚がよりシャープになり、
空気を感じる力が高まった。

これによって、今まで曖昧だったことが
より明瞭になった。

何が正しくて、何が悪いか。


そういった基準は存在します。
宇宙的な基準。
命本来が有する感性。

宇宙的な感性というのがあります。


しかし悟りの文脈においては、最終的には、
こうしたジャッジすら超越することになりそうです。

けれども、「この世界」と「あの世」とで生活するには、
この宇宙的な基準がモノサシとなります。


宇宙的な基準。
これに照らせば、何事も瞬時にわかるようになります。

善いもの、悪いもの。
近づいていいもの、近づいてはならないもの。
避けるもの、避けないもの。
好ましいもの、好ましくないもの。
徳になるもの、徳にならないもの。

そういうのがあります。
智慧と慈悲を内包させた宇宙的な基準。

ヘヴィメタ、ハードロック、怒り、絶叫、陰気、低波動。
すべて悪徳であり、命をおびやかすもの。
こうしたものを好んではなりません。
親しみをおぼえるのもよくありません。


という具合に、物事の善し悪し(好ましいことのと好ましくいないこと)に、
以前に増して、ビシっと線引きができるようになりましてね。

と同時に、これが不思議なのですが、善悪に分けるからといって、
悪と感じるものを強く拒絶するというわけでもありません。

禅や悟りの文脈では、ジャンジしない(好き嫌いをしない)ということから、
「なんでもOK(拒絶しない)」という姿勢が推奨されています。


が、これは少々違うんじゃないかと思います。

好ましいものと好ましくいないものはあって、
好ましくないものは避ける。

雨が降れば、雨をよけるように。
暑ければ、日陰に入るように。

不快なことからは避ける。
ヤバイものには深入りしない。

「エゴのジャッジ」ではなく、
「命が感じる本能のような感性」。


これこそが「宇宙的な基準」。
命本来が有する感性。
宇宙的な感性。

この感性で、好ましいものを伸ばしていくことの先に、
高次元の感性があって、能力があって、天界があって、
宇宙の根源的な生命がある。

宇宙の根源的な生命に近づき、深まるにつれて、
ますます感性はシャープになりつつも、寛大になってゆく。
智慧と慈悲とのコラボ。

言葉では、たぶん伝わりにくい精妙な感性だとは思いますが、
そういう精妙な感性があって、その精妙でシャープな感性が、
物事の善し悪しを、電光石火の速さで即断、即応していきながらも
寛容さがあたたかくも包み込む。


禅のアプローチでは、「あらゆるものをジャッジしない(受け入れる)」といって、
徹底した非思量をいいます。

これとは違って、「命に溶け込んでゆく」というアプローチがあります。
「命に溶け込んでゆく」系は、命本来が持つ基準のようなものにしたがって、
好ましいことが広がって命に溶け込み、善・徳・慈悲が深まってもゆき、
最後にポトンと落ちる(完全に溶け込む)。

こういう「いまここ」「あるがまま」。

善、徳、わらかさ、あたたかさ、やさしさの向こうにある高次の徳。
エネルギー。

このエネルギーとは、霊性とか、慈悲とか、智慧とか、空とか、
あるいはサムシンググレートとかもいわれてもいます。


このエネルギーに根ざしたアプローチであるなら、
島田幸安らが述べているような「天狗界」「仏魔」になることはあり得ない。

善、徳、わらかさ、あたたかさ、やさしさの向こうにある高次の徳。
これらを欠き、虚無な教えを説くから、「天狗界」「仏魔」に墜ちる。
禅特有の虚無な表現など、まさにこれ。
だから一休をはじめ、名だたる禅師が、「天狗界」「仏魔」に墜ちている。


ブッダの推奨した歩みは、禅的なものとは異なる。
と、感じています。