ゆるぼさラウンジ

お気楽ごくらくラウンジ

試練・学びとして受け止めるのことの大切さ

こちらの南国珈琲に移り、南国ラウンジの読者さんより
メールもいただきました。
その後、メールもいただいたりもしていますが、
充分な返信ができないままで、申し訳ありません。

コメントにしても、メールにしても、人は反応・返信をして
欲しいんですよね^^
それが人情ってもんです。

でも、メールの返信とかも、できないこともありますが、
ご理解いただければと思います。

あとブログも、全部が全部、コメントを返すことができなかったりしますので、
基本的にコメント欄は開けておりません。
相手に対して悪いですのでね。


FLY HIGH (Symphonic ver.) /安藤禎央さん *エレクトーン*




そんなこともありますが、さて、こちらのブログをご案内した皆さんは、
スピリチュアルや宗教に興味を持ち、
また善行、積徳、ハートを大切にする、自己観察、いまここを
日常的にされている方がほとんどなあ、という感触があります。

これが一番大事ですね。
軸になるところです。

やり方は、人それぞれですが、創意工夫しながらでも、
続けていくことが大事ですね。


で、ね、言っちゃ悪いのですが、続けることができない人は、
お気の毒なんですね。

もう歴然と差が付いて来るんですね。
2年、3年、5年と経つと、同じ時期に始めた人と、
やらないまま来ている人では、大きく違いが出てきます。
魂の成長に違いが出てくるんですね。
気の毒なくらいに差がでてきます。

中には、ある程度進んでも、途中で止めてしまう人もいます。
また、ちょっと開けてきたときに、思わしくないことが生じて、
ちんぷりかえってしまって、元の木阿弥になってしまう人もいます。

いろんなケースがあるんですね。
で、大事なことは、やっぱり続けていくことなんです。
石にかじりついてでも続けていく時期もあります。
でも、工夫をしながら続けていくことなんですね。
ええ。

思想や教えを聞いて納得したり、メモをして満足するのは、
やらないよりはまだいいのですが、
何年もこの状態ではさすがにコラっ!と言われますからね^^;


で、修養を続けることができない、工夫することができない、
こうしたことで嘆いているばかりの方って、
あんまり使いたくない言い方なのですが、
よほど「前世の業」が重たいのかなあ、と思ったりもします。

しかし、おそらく、もっと他に何か向いているのがあるんでしょうね。
自分磨きとか、魂の成長とかではなく、
もっと別の何かが、その人には合っているんじゃないかと思います。
たぶん、そうじゃないかと思います。


あるいは、「最後の手段」として、「毒をもって毒を制す」ではありませんが、
新興宗教で「因縁切り」をしている霊友会とか、立正校正会、
阿含宗真如苑で修行でもしたらどうなのかなあ、
と掟破りの禁断の方法を勧めたくもなりましょうか^^;

しかし新興宗教は危なっかしいですからね。
でも、そこまで前世の業とかがあるなら、
「毒をもって毒を制する」最後の手段なのかなあ、と思うときもあります。

自分に鞭を打ってでも苦行めいたことをする時期もありますからね。
オウムでは「カルマ落とし」なんてゆー恐ろしい言葉も使っていましたが、
これも新興宗教の「因縁切り」と同じです。
新興宗教は、必要だと思う方はやってください、といった感じですね。


ちなみに、島田幸安先生の「幽界物語」には、
「あの世」には「罪穢れを落とすための苦行がある」っていいます。

ええ、実はあるそうなんですよ。
「あの世」には、因縁切り、カルマ落としのような修行が。

実際、島田幸安先生は、あの世で、
・100日間の断食修行
・火炎が立ち上る熱湯の滝を受ける灼熱修行

という、水と火による苦行をしたことを「幽界物語」で語っています。

富士山では、雷鳴とどろき風雨嵐が吹きすさぶる中、
100日間、断食修行をしたといいます。
「辛苦の大苦行」と述べています。

高野山では、火炎地獄となる灼熱の中、
鉄をも溶かす猛火の如き熱湯の滝を受けての修行。
しかも、この中で、100日間、断食。

こうした難行苦行を長期間にわたって修行したといいます。
もう身も心も魂も消えてしまうんじゃないかと思う位、
失神するほどの死ぬ思いだったといいます。

すさまじいですよね。

しかし、この苦行こそが、「前世の業」を晴らす修行であるといいます。
前世の業というと誤解されますが、心身についていた罪穢れですね。
これを取り落とすための実習ですね。

これをすると、心身共に爽快となって、シャキンとするといいます。
あの世で、こうした苦行ができるってことなんですね。

で、罪穢れを払うと、心身が爽快になって、明朗となります。
こうした仕組みが、あの世にはあるといいます。


で、人は亡くなると、自らの罪穢れを払うために、
こうした苦行をする「選択」が与えられるといいます。


ほとんどの人は、恐れおののいて苦行をすることなく、
再び、人間に生まれ変わるといいます。

が、人間に生まれ変わると、罪穢れを払っていませんので、
才能とか資質に難が出てくるとか、
人生上に「試練」「課題」となって立ちあらわれるといいます。

これを仏教では「業」とか、怖い言い方をしています。
が、こういう言い方はあんまりしたくありませんね^^;

ま、要するに、「試練」ですね。
「学び」です。


で、この「試練」なり「学び」を、「あの世」で済ませる人もいれば、
この世に持ち越す人もいるってことなんだと思いますね。


で、「あの世」で試練なり学びをしている人の状態を、
「地獄」とか言っているんじゃないかとも思うわけですね。

島田幸安先生の修行は、見方を変えれば「地獄」「餓鬼」ですからね。
仏教で説いている「地獄」とかは、案外、こういう意味なのかもしれませんね。
推測ですけどね。


で、まあ、「試練」や「学び」は、誰しもありますからね。
ええ、あります。

大事なことは、これを「どう受け止めるか」ですね。
仏教のように「業じゃああ〜」みたいに恐怖、希望無しとして、
打ちひしがれる虚無のように受け止めるのか。

それとも、「試練」「学び」としてポジティブに受け止めるのか。

この違いはものすごく大きいですよ。
天と地の違いがあります。

ポジティブに受け止めると、後の成長にもつながります。
よりよくなってきます。

なので、「自分の成長」のため、「魂の向上」のためといったニュアンスで
肯定的に理解し受け止めたり、「いまここ」でフラットな姿勢でスルーするとか、
自然体になるとか、そういう姿勢が必要なんですね。

この姿勢がものすごく大切なんです。
で、この姿勢が大切な理由も、こうした観点からもおわかりですよね。


おすすめしている実習も、こうした「姿勢」なんです。
これが軸になるんです。

自己の成長、魂の向上にもつながる。
しかも、新たな善なり徳を育んで、ますます魂の成長につながり、
神さまのような存在にもなっていく。
と、同時に、「いまここ」をすることで、悟りにも近づく。

素晴らしいでしょ^^
で、これを「光の道」と言っているんですね。

希望、よろこび、創造、ワクワクのある明るい道。
光の道。


「業」だとか「カルマ」とかいって、暗く、重たく、
嫌なニュアンスで受け止めないことですよ。

もうね、こんな暗〜〜いのは止めたほうがいい^^;
こういう受け止め方自体が、「穢(けが)れ」ですよ^^;

こんな受け止め方、「しっし、あっち行け」
って感じで、露払いしたほうがいいでしょう(笑)


善行、積徳、ハート、天晴れ、ポジティブ、「いまここ」、自己観察などなど
いろんな言い方もありますが、こうした姿勢を軸にしていくことですね。

試練、課題は出てくるときもあります。
大概、「嫌な思い」「苦しさ」「腹が立つこと」などといった
ネガティブな感情をかき立てることして出てきます。
日常的に起きることもあります。

で、腹が立つことが起きても、そこで反応しないで、
ポジティブ、いまここなどで対応することが大事になってくると思いますね。

こうしたことの積み重ねが、罪穢れとなっているものを薄め、払い、
心身の浄化にもなっていくんだと思います。

仏教のように重たく受け止めてばかりいちゃあ、
かえって穢(けが)れの心を増してしまいますので、
明朗、天晴れに、いいじゃん!て感じのがいいですね^^